鯨組についてⅠ(江戸時代)

土肥市兵衛鯨組(初代から三代)

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初代土肥市兵衛信睦は、慶長3(1598)年生、元禄5(1692)年95歳没。
家計由緒写によると、平戸藩主初代松浦鎮信と朝鮮王姫の子。文禄・慶長の役で豊臣秀吉没後、鎮信公と同伴の上帰国途中、壱岐の渡良浦に着いたとき男子出産。その子が初代土肥市兵衛で、幼少期は育て親の下で市三郎として壱岐で過ごし、6・7歳の頃平戸に移住。平戸では名を八右衛門と改め、弟となる松浦蔵人信正の元に住んでいた。が、青年になり壱岐で商人として身を立てたいと願い出て、名を土肥市兵衛と改め、勝本の黒瀬西町に住居(海産物商)を構え、海産物の取引で財を築いた。
 二代土肥市兵衛教睦は元文元(1736)年の頃鯨組を起こし、次男甚右ヱ門のとき瀬戸前目で共同で鯨組を経営。甚右ヱ門は莫大な富を得たので松浦公に献金して苗字帯刀を許され、武士となり馬廻り役50石を受け、勝屋敷(勝本中学校プール周辺)を建て、家督を弟(平五郎)に譲った。鯨組・土肥家の元祖の物語である。
          画像編集 Copilot-Kpc 壹岐名勝図誌

1550年 1600年 1650年 1700年 1750年 1800年 1850年

      
       初代-ーーーーーーーーーーーーーーーーーー- 
             二代-ーーーーーーーーーーーーーーーー
                  三代-ーーーーーーーーーーーーーーーーーー-
                        四代-ーーーーーーーーーーーーーーーーーー-
                       五代・六代・七代-----------------------------------
                                  八代-ーーーーーーーーーーーーーー
                                            九代-ーーーーーーーーーーーーー
                                                     十代-ーーーーーー-
 *1684年勝本浦に納屋場が建設され。土肥鯨組は享保年間(1716~35)に,鯨組船団(常時1000人余)を組織し隆盛を極めた。

左図のマークは、鯨組が活躍した江戸時代の主建物。
 港の西(左側)は上から、①「聖母宮」本殿は土肥鯨組四代市兵衛が総欅の厚板で造営。加藤清正寄進の西門はその時改修し、蛇の目の紋から蔦の紋となった。②「宮司宅」平戸藩主の命で1627年から居住。③「厳島神社」朝鮮半島への神として大和朝廷によって祀られた。④「朝鮮通信使迎接所」約450人が宿泊。⑤「原田鯨組」の屋敷。⑥「押役所」外敵警備と治安維持のため1680年設置。⑦「志賀神社」通信使滞在中に順風祈願。⑧「対馬屋敷」通信使案内役の対馬藩宿舎。⑨「永取鯨組」の屋敷。⑩「浦庄屋」浦の漁業を管理。⑪「土肥鯨組」黒瀬西初代の屋敷。⑫「黒瀬神明宮」と神明坂。⑬「能満寺」旧三光寺で本殿、梵鐘は土肥鯨組寄進。⑬「竹屋」土肥鯨組の海産物商。
 港の東(右側)は下から、①「土肥鯨組新宅」1719年四代が32歳のとき築造。②「御茶屋屋敷」四代が海岸を埋立てその後背地に3年の歳月をかけ築造した大邸宅、③「勝屋敷」土肥鯨組二代の次男で武士に取立てられた土肥甚右ヱ門の屋敷。④「田浦納屋場」鯨の解体場所。四代により拡張。⑤「田浦神社」鯨の尾ひれが捧げられた。

 下は四代が建てた「 大久保屋敷 」。冬の別荘と言われ、土肥の鯨組の家人と京都から招いた芸者、舞子十数人が住んだ。近くの京ノ尾辻(きょんのおつじ」には「京ノ尾宮」があり、聖母宮大祭に合わせて土肥鯨組が奉納し、始めた「お囃子」一行が登っていた。

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二代:土肥市兵衛教睦(初代長男:幼名甚次郎)寛永14(1637)年生、享保14(1729)年92歳没
二代土肥市兵衛は、鰯網で財を成すとともに元禄年間(1688~1704)芦辺の布屋九郎右衛門ら4名と共同で鯨組を起こす。享保12(1727)年、布屋九郎右衛門・篠崎与右衛門・許斐小左衛門ら5名と共同経営。貞享元(1684)年には、勝本田浦に納屋場が建設され土肥市兵衛組・大村の深沢義太夫組・小値賀の小田伝兵衛組が活躍し捕鯨業は盛大となった。二代土肥組は父と共に次男・三男が捕鯨業に従事。次男土肥甚右ヱ門は1712年三光寺本堂造営寄進、聖母神社御影石の灯籠寄進、享和2(1717)年には前目浦で鯨の供養塔を建立。1727年頃瀬戸前目浦で、郷ノ浦許斐子左衛門、瀬戸布屋九郎右衛門、芦辺篠崎与右衛門と共同で鯨組を経営。後に平戸藩への献金の功で武士となり、勝屋敷を立てて家督を弟(三男平五郎)に譲る。初代次男角兵衛は、海産物商「竹屋」を起こす。初代三男角兵衛は、「油屋」を起こす。

三代:土肥甚右ヱ門(二代次男)→土肥市兵衛(二代三男:幼名平五郎)寛文2(1662)年生、宝暦5(1755)年93歳没
創業以来大漁続きで土肥家の基盤益々固し、黒瀬西の浜を埋立て土肥使用とし、中央に本邸・金量り場・花畑等に区分された。正徳2(1712)年51歳のとき三光寺に梵鐘を寄進(現在の能満寺)、聖母神社の拝殿造営寄進。長男甚太郎は家督(四代)を継承し、享保4(1719)年、32歳の時坂口町に豪華な新宅(現在の石橋酒屋)を建て移り住む。元文元(1736)年の頃、共同の鯨組で財を成した土肥鯨組は独立での操業を開始。鯨組を出すには銀400貫(5000両)を必要とした。元文5(1739)年生月(平戸)の益富組と前目浦・田浦の隔年使用契約を交わす。土肥組の経営拡大もこの前後には本格化し始めたと考えられる。二代長男武右衛門は、叔父の海産商「竹屋」を継承。