土肥鯨組Ⅱについて(江戸時代)

土肥市兵衛鯨組 (四代から七代)


享保4(1719)年、四代32歳の時築造した新宅(現在の石橋酒屋) 新宅座敷の屏風。右から半ほどは、宋代の大書家米芾(みふつ)の虎丘詩帖
                              清代の書 法家「帳照」の臨書で「故宮博物館院」展蔵。最初の詩は「海湧一小山」。

四代:土肥市兵衛秀睦(三代長男:幼名甚太郎、晩年八右衛門)貞享4(1688)年生、安永9(1786)年94歳没
 三代長男甚太郎は、長ずるに従い知略に富み、肝太く衆望を集め土肥鯨組の全盛時代を築いた。享保4(1719)年33歳の時、坂口町に豪華な新宅(現在の石橋酒屋)を建て移り住む。新宅は門構えの玄関を設け、壮大なる家屋に屋久杉の天井板、羽目込み式の八枚屏風、木目鮮やかな大火鉢、欄間の扇の掘り込み、釘隠し、庭園の御影石の手洗い鉢など、往時の豪華さをここかしこに見られる。四代の長男は平戸藩士に取立、次男は五代・三男は六代・四男は七代を継承し土肥鯨組の全盛を支えた。
 四代は、先代までの捕鯨事業の拡大を目指したが、資金調達の目処が立たなかった。鯨組の操業には1漁期に約5000両の資金、複数の鯨組の操業には、最低でも1万両程度の資金が必要となる。この資金調達は、鯨組が巨大化するうえで不可避な課題であった。四代市兵衛は、膨大な運営資金を大阪の豪商鴻池家の融資を得ることで解決した。市兵衛は鴻池家で3年間丁稚奉公をして信頼を得た後、初めて素性を明かして3万両の融資を実現させたという。
資金を得て、平戸、対馬、唐津に基地を拡充。捕獲数は一日7~8頭から多い時は15頭を数え、業務拡大に対応するため田浦納屋場の解体場を大拡張し納屋10数棟を建設。18世紀中頃から後半にかけて土肥組の経営は最盛期を迎えた。
 また、勝本市街地狭隘のため、山を拓き、海を埋立て市街地(黒瀬、正村、新町)拡張。さらに広島と大阪に鯨の売り捌き場を開設するなど活動の舞台を広げていった。宝暦5年(1755)家督(四代)を継承。宝暦12(1762)年、前目浦を改築し捕鯨場を拡張。安永6(1777)年の土肥組の「永続艦」による鯨の捕獲数(1770年~1775年)は、勝本で43本・41本・47本・45本・40本・36本で、田浦納屋場は1000人余りの人夫火事場のごとき騒々しさであったと言われている。土肥鯨組は、壱岐以外に唐津領の小川島、平戸島、小値賀島、津吉。大村の栃の浦島。対馬の伊奈の茂江津、廻り浦、鰐浦等にも捕鯨の基地を拡張。これを合算すれば1ヶ年の捕獲高は優に200頭を数え、鴻池、三井とともに天下の富豪(鯨王)となった。

勝本の鯨組は、元禄年間(1688~1704)に共同経営という形で始まり、それから嘉永年間の始め(1850)頃まで鯨も多く隆盛を極めた。
 最初に鯨組を起こしたのは土肥家の二代土肥市兵衛で、鯨の大軍が通る真っただ中に位置する壱岐島の前目と田浦を基地とし大盛況を極めたが。が、八代土肥市兵衛の文化7・8(1810・1811)年の漁期に「無下」なる不漁に見舞われ、経営継続が困難になり九代の時代に解散のやむなきに至った。
 原田七之助組は、鯨の部位の加工・販売で財を成し天明元(1781)年鯨組を起こし、嘉永7(1854)年藩の公認を得た。元治元(1864)年、藩主より献金の功により「永取」の姓を拝領。慶応3(1867)年鯨の減少により解散となった。
 原田元右衛門組は、鯨の部位の加工・販売で財を成し、天保11(1840)年土肥鯨組の後を引き受けて捕鯨業が許可された。明治2(1869)年鯨の減少により解散となった。
 以後、勝本浦は鯨組を核とする社会組織から、問屋が資本・金融関係を梃に零細な家族経営の漁家を編成する社会組織となった。